考えるということ

授業で,プリントを配る.

生徒は,「どこを覚えればいいの?」と聞いてくる.

そこに「思考・判断」は無い.

でも,生徒に罪はない.だって,さまざまな教科で,

  • プリントの内容を覚えなさい
  • 問題集を解きなさい
  • 単語帳使って英単語を覚えなさい

ということをやっているのだから,生徒の反応は当然だ.

でも,そればっかりだと,「正解」をパズルを解くような意識で探し,あてはめ,喜んだり悔しがったりするだけの作業に偏ってしまう.

そう,そればっかりだと良くない.考えるにあたっては知識が必要だから,ある程度覚えてもらわないと困るけれども,一方で,想像力をたくましくして考え,自分は何をどう考えたのかそれは妥当なのかその考えは有益なのか云々を自分の言葉で表現することもまた,必要だ.覚えたことを活用する引き出しを持つことがすなわち教養の獲得なのではないか.

OECD生徒の学習到達度調査(PISA)でスコアが下がったなんだと言われていましたが,私が気になったことは,考えたことを自分の言葉で表現する力が不足しているということ.つまり,そういう力をつけるような授業が少ないということ.教科によっては知識を教え込むだけで時間的にいっぱいいっぱい(難関大の受験を意識するとどうしてもそうなる) だからとてもじゃないけど・・・ということもある.

そういう状況のなかで,教科「情報」の位置は,意外に面白い.いつぞやかのエントリでも述べたことですが,情報の授業を真面目に準備すると,国語や数学,理科,地歴,公民,英語,芸術いろいろな領域を横断することに気付く.つまり,他教科で得た知識を活用するための場,教養を得るための場として,教科「情報」は使えるということ.

でも,「2単位」という時間には限りがある.どれだけ「考える時間」を確保できるか.来年の授業を組み立てるにあたり,ここが一番悩ましいところでもあります. いろいろな分野の知識を扱いたい.でも,知識偏重だといけない.一方で,考える時間を確保すれば,それだけ扱える知識には限界がくる.

まー,そのあたりの議論は27日の「どっと関東」の研修会の参加者に投げかけるとしましょう.

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